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ルドルフ1世(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、1218年5月1日 - 1291年7月15日)は、ハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主(ドイツ王、在位:1273年 - 1291年)。ハプスブルク伯としては、ルドルフ4世。日本語ではルードルフとも表記される。ルドルフ1世のドイツ王選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ〔江村『ハプスブルク家』、20頁〕、彼の時代にハプスブルク家はヨーロッパ有数の家門に発展する〔踊『図説 スイスの歴史』、22頁〕。 神聖ローマ帝国の大空位時代の中で、1273年の国王選挙において選帝侯たちはルドルフを御し易い人物と考えてドイツ王に選出し、大空位時代は終結する〔ピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻、214-215頁〕〔江村『ハプスブルク家』、20,22-23頁〕〔山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、72頁〕。ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていたドイツに20年近い平和をもたらした〔。そしてルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やしていき、神聖ローマ帝国に地盤を作り上げた〔。ボヘミア王オタカル2世に勝利した後、ルドルフはウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地とされる〔。 == 生涯 == === ドイツ王選出前 === 1218年5月1日〔瀬原『スイス独立史研究』、9頁〕にハプスブルク伯アルブレヒト(1240年没)とウルリヒ3世の娘ハイルヴィヒ(1260年没)の間に生まれる。アルザス北部のリムブルク・バイ・ザスバッハでルドルフが誕生した伝承が残るが、伝承の真偽については疑問が持たれている〔瀬原『スイス独立史研究』、28頁〕。ハプスブルク家に信頼を置く神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、ルドルフの名付け親となった〔。 13世紀半ばのフリードリヒ2世とローマ教皇の抗争においては、ルドルフは父アルブレヒトと同じく皇帝派(ギベリン)に与し、ハプスブルク分家のラウフェンブルク家と戦った。1240年に父アルブレヒトが没した後、ルドルフは家督の継承から数年の間にラウフェンブルク家から土地を奪取していき、勢力を拡大する〔ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、36頁〕。勢力拡大の過程では、母方の伯父であるキーブルク伯ヴェルナーに土地を要求して争った。バーゼルに夜襲をかけた際に女子修道院に放火し、そのために教会から破門を宣告されが数年で破門を解かれ、伯父ヴェルナーとも和解した。1250年にフリードリヒ2世が没した後、ルドルフは彼の遺児であるコンラート4世に仕える〔菊池『神聖ローマ帝国』、137頁〕。 1253年、ルドルフは西南ドイツのホーエンベルク伯の娘ゲルトルートと結婚する〔江村『ハプスブルク家史話』、37頁〕。 1264年に母方の実家であるキーブルク家の男子が断絶すると、ルドルフは母方の従兄ハルトマンの娘アンナの後見人となる。ルドルフはアンナをラウフェンブルク家のエーベルハルトに嫁がせ、1273年にエーベルハルト夫妻から中央スイス各地の支配地、ツークなどの都市を購入し、親の代に分裂したハプスブルクの支配地を再統一した〔森田「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』、44頁〕。しかし、契約文書の中に購入地として記載されていないオプヴァルデンが簒奪された形でルドルフの手に渡り、買収金も全額支払われなかったため、ラウフェンブルク家には大きな不満が残る〔瀬原『スイス独立史研究』、76頁〕。 本拠地のアルザス、分家から買い戻したスイスの領地からの収入により、ルドルフは世俗諸侯中で選帝侯に次ぐ資力を有するようになった〔瀬原『スイス独立史研究』、41頁〕。ハプスブルク家はスイス最大の封建領主となるが、ドイツではシュヴァーベン地方を除いて無名に近い存在だった〔森田『物語スイスの歴史』、51-53頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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